私には、とても好きな瞬間というのがいくつかあります。オーケストラが演奏を始めるほんの一秒前、満員の劇場が水を打ったようにシーンとなり、自分の鼓動までもが聞こえてくるあの瞬間。映画が始まる数秒前、映画館が暗転するあの瞬間。そしてもうひとつ。旅に出て、朝起きたときに、ホテルの部屋のカーテンをサーっと開くときのあの瞬間。それらは皆、何かが始まるという興奮と期待がはじける前の幸せな予感に満ちたひと時です。
今回のウィーンでも、朝、カーテンを開けるたびごとに、そんな予感を感じてきました。窓から見渡す景色は、グリーンに黄色や赤といった秋色が入り混じりはじめていて、とても美しい。こういった風景が、多くのアーティストにインスピレーションを与えてきたのでしょう。部屋からは、初日に挨拶に立ち寄ったベートーヴェンの銅像が見えます。街のいたるところに、有名な作曲家、作家らの銅像が建ち、ウィーンがいかに西洋芸術史の中で重要な役割を果たしてきたかがわかります。

今日はいよいよ、オーストリアのみならず、ヨーロッパで栄華を極めたハプスブルク家の宮殿を歩きます。まずはかの有名なシェーンブルン宮殿。ここは、ウィーンの中心であるシュテファン寺院から直線で西に5kmほどのところにあるので、地下鉄で移動。最寄りはシェーンブルン駅。降りると、多くの人が同じ方向に向かうので、すぐにわかります。ここは歴代君主の離宮。マリア・テレジアもマリー・アントワネットもここで過ごし、オランジェリーホールではモーツァルトも指揮しています。神童と呼ばれた彼が6歳のとき、マリー・アントワネットにプロポーズしたという微笑ましい逸話が生まれたのもここ。そして、あのウィーン会議も行われました。宮殿の前に立つだけで、数々の歴史が刻まれた場所という事実にちょっと興奮してきます。

宮殿内では、世界的に人気のある悲劇の皇妃エリザベート(シシィ)の部屋が公開されていて、ダイエットにいそしんだ彼女の運動器具や、ドレスなどが展示されているので興味深く、同性としてはなんだか親しみを感じます。
宮殿の後方には、よく手入れの行き届いた、天国のような庭園があり、ネプチューンの噴水、そして小高い丘にはグロリエッテ展望台が。この展望台(今は絶景カフェに)まで、息を切らしながらも登ってみると、眼下にはシェーンブルン宮殿の向こう側にウィーン市が広がっています。ここから見下ろす市内の風景は最高! その様子はまるで、美しい女神の前に街が跪いているようです。歴代の君主も、ここから満足気に自らの民の住む街を眺めていたことでしょう。

1996年に世界遺産に登録されたこの宮殿は、建物の内部を見学しなければ入場は無料。美しい風景が広がっている庭園は散策するだけでも癒されるので、ウィーンの人々が羨ましい。市内には公園が沢山あるけれど、フランスのベルサイユ宮殿と並び称される宮殿の庭園は、やはり特別な気分にさせてくれますね。

さて、次に訪れたのは“美しい眺め”という名を持つベルヴェデーレ宮殿。ゆるやかに傾斜した庭園の両側には、上宮と下宮が建てられていて、そのいずれもが美術館。
残念ながら、庭園はお手入れ中でネットなどがかけられていたけれど、ここに来た目的は美術館(特に上宮の)を見るためだったので、めげずに上宮へ入ります。そして、ゆっくりと目的の絵の前へと―。それは、グスタフ・クリムトの官能美溢れる作品群の中でも特に人気の高い「接吻」。男性に抱きすくめられ、愛情いっぱいの接吻を受ける女性の顔はうっとりとしていて恍惚状態。ここから発せられる愛のオーラに、なんだか心がポカポカしてくるよう。ゴールドを使った色使い、立体的なテクスチャーといい、これはまさに絵画の宝石。後で聞いた話では、「接吻」はかなり頻繁に海外に貸し出されるそうなので、不在のことも多いとか。生で見られたのは、幸運とのことでした!
何時間でも佇んでいたくなるほどの幸福感を与えてくれる「接吻」ですが、実はこの夜、オペラ鑑賞の予定があったので、そうもしていられず、一旦ホテルに帰ることに。いくらなんでも、ジーンズでオペラに行く気にはなれませんので。
本場ウィーンのオペラ座といえども、実はドレスコードはないそう。でも、素晴らしい芸術をみせてくれる人々への敬意、その特別な夜を最大限に楽しみたいという想いも込めて、やはりドレスアップはしたいもの。だって、そのほうが絶対に気分が盛り上がるはずなのですから。ホテルへ戻り、ロビーを歩いていると、クラシック音楽が流れています。日本も含め、クラシックを流しているホテルは多いけれど、これほどまでにこの音楽が似合う場所はないなと思いつつ、部屋へ。

そして、6:30PM。憧れの国立オペラ座へ。シーズン中、毎日演目が変わるという、恐ろしいほどパワフルな劇場。ウィーン市内外にある倉庫から、毎日ように舞台で必要な大道具や小道具が入り代わり立ち代わり運び込まれているのだそう。
この日の演目は、
ジュゼッペ・ヴェルディの「オテロ」
指揮:A.フィッシュ、演出:C.ミーリッツ
出演:J.ボータ、F.シュトルックマン
エントランス、そしてその天井には、夢の世界へと人々を誘うかのように美しい装飾が施されていて、足を踏み入れた瞬間から、別世界へとやってきたことを体感できます。時間がある方には、開演までの時間をゆっくりこの空間で楽しめるよう、早めにいらっしゃることをおすすめします。もちろん、ワインやコーヒーを飲みながら、この素晴らしいインテリア(ここで指揮をしていたマーラーの胸像なども)を優雅に鑑賞できますが、夢の世界には少しでも長く浸っていたいものですからね。

いよいよ開演前のチャイムが鳴り、私が大好きな最高の瞬間のひとつ、ゾクゾクするほどの静寂がやって来てオペラがついにスタート。「オテロ」は、ご存知のように、文豪ウィリアム・シェイクスピアの名作が基になっています。キプロスの総督でムーア人のオテロが、妻の浮気をある人物から耳打ちされますが、これは陰謀。事実無根の浮気話ですが、一度芽生えた猜疑心により、平常心を失ったオテロが、自らの嫉妬心に負け妻を殺し、しまいには自滅してしまうという悲劇。生きる楽器と化したオペラ歌手たちが、感情をほとばしらせながら歌う名曲の数々に感無量でした。
実は、前日にはセルゲイ・プロコフィエフのバレエで、やはりシェイクスピアの悲劇「ロメオとジュリエット」も観劇していた私。現在、某携帯電話会社のCMで使われている音楽を含む名曲目白押しのこの演目。ジュリエットを演じるバレリーナの儚げな優美さといったら!自分でも驚いたのですが、その幻想的な美しさと音楽の素晴らしさに、何度も本気で涙を流しました。しかも、ホロリとではなく、かなりボロボロと。本当に夢のようなひと時でした。と、このように、毎日違う演目を披露するウィーン国立オペラ座なら、短いステイでも違ったプログラムをいくつも楽しむことができます。ああ、こんな贅沢いいのかしら。いえ、きっとウィーンだから許される贅沢に違いありません。
この日の夜はオペラ終了後、知人が紹介してくれたウィーン在住のイギリス人、エリーと会うことになっていました。オペラ座に出かける前、彼女の携帯に連絡すると、「夜の12時頃から始まるパーティに行くんだけど、一緒に来る?」 連日、朝早くから歩き回っていたせいもあり、少々体力的にキツかったので夜遊びは心配だったけれど、彼女と会えるチャンスはこの日だけ。そこで、思い切って出かけることに。アートスクールに通いながら、自らカフェ「elliefant」を経営しているエリーは、今やっているビデオインスタレーション・プログラムのパートナー、マリオとともに終演後のオペラ座に登場。パーティ会場はオペラ座のすぐそば。パーティは学校の新学期が始まるにあたって、学生たちが主催したものなのだそう。
「学校でこの騒ぎ?」と思うほど、はじけているのは創造性と個性溢れる若者たちの集まりだからでしょうか。10歳以上も下の若者たちに囲まれて、どぎまぎしながらも、この際なのでウィーンでの生活、将来の夢などについておしゃべりしていました。マリオは日本のアートに興味があるそうで、「TAKASHI MURAKAMI(村上隆)はクール!」とか、「日本のMANGAはおもしろい」とビール片手に会話が弾みます。そうこうするうち、ソーセージでも食べに行こうという話になり、夜中の2時頃だというのにソーセージスタンドへ。焼いたばかりのあつあつケーゼヴルスト(チーズソーセージ)をごちそうしてもらいました。年下なのに、なぜかおごってくれると言ってきかない素敵な子たち! 寒いけれど、おしゃべりもソーセージも、最高。こんな風に、初めて会った人たちと親しく過ごす時間は、私にとっては最高の瞬間の連なりです。
深夜、こんな風にふらふら歩くなんてヨーロッパでは考えられないけれど、ここは安全。「ヨーロッパの中でも最も安全な街のひとつだから、凶悪事件はまれなの。めったにないけど、何か事件が起これば、大ニュースになっちゃうほどよ」とエリー。なるほど、だから真夜中でも一人で歩いている人たちが多いのね。 「そろそろ帰ろうか…」という話になったときは、すでに午前3時が過ぎていました。オペラ座まで3人一緒に歩いていくと、その前には、深夜バス乗り場があって、人がいっぱい並んでいます。こんなに夜遊びしている人がいたのね……。こんなウィーンは想像していなかった。優雅なウィーンと素顔のウィーン、両方を見て、最高の瞬間を体験できて、とても興味深い夜でした。ありがとう、エリー、マリオ。





